感動といったら、派手で華やかな心の動き、または分かりやすい喜怒哀楽ばかりに注目しがちであった。もちろん、そうでないものも確かにあるのだか、それらは今が次々と移って行く中で十分にはすくい採れずにいたような気がする。MOT、東京都現代美術館の企画展『新たな系譜学をもとめて』を見て、自分の内側で起こった思考や心の動きを、正確に明確な言葉へと置き換えることは時期尚早な気がしますが、やってみようと思う。
※この記録では本企画展のパンフをおおいに参照しました。
私の記憶や解釈違いもあると思われます。拝読なさる際にはその点に十分ご注意お願い致します。
まず、なぜ、本企画展に興味を持ったのかです。これは率直即答で、長谷川祐子さんのロゴスにとてつもない興味を感じるからです。本企画展を知ったのはご本人のtweetに因ります。長谷川祐子さんのTwitterアカウントには本企画展の説明が並んでいます。Contemporary artはそのロゴスにいちばんの醍醐味があると思う。作品を通して何を考えてみたいと思っているのか、何が興味の中心なのか、またそれらはどういった手法で表現され、作品それ自体がどのような層(思考過程)を成しているのか、そしてその作品を通して制作者が伝えたい と思っている彼らの考えや意図、そしてその基礎や起源となった背景を知って初めて成立するものと感じます。つまり、それら抜きとなると種のない動植物、仕事のない毎日の様なものだろう。本来Artは言葉に表しにくい部分をその他の手段で表現するものと思いますが、そうは言ってもそれらをより深く理解する為に大切な部分がこれほど、ハッキリと明示してある事にまず感動したからです。本展示では各作家で個々の表現を試み、それらはグラデーションを持ちつつ、豊かなバリエーションとなってあるボリュームを作っていた。結果、十分な訴求力をもっていた!
野村萬斎さんは教育テレビのにほんごであそぼで知る程度でした。ですが萬斎さんの音声付きの舞台の映像を見て、狂言の芸術性の高さを知った気がします。説明によると、狂言の型は600年の時を脈々と経て来、その型を表現することで過去のいずれの当時へもトリップすることになる。それらはまぎれもなく萬斎さんの身体表現、感覚や記憶、知恵のルーツとなって現れていると考えられる。またその基礎があるからこそ、新しい試みへと跳躍できるのだ。2013年3月末グッゲンハイム美術館で行われた日本最古の舞では、杉本博司さんの(比較的最近であると思う)「Lightning Fields」が取り込まれていた。また、今日の長谷川さんの説明によると、萬斎さんの略年表はdigital signalと相交わり、最近よく見かけるスタイル、プロジェクターで映し出されていた。それらのアプローチミックスが私は素晴らしいと思う。
次はダムタイプ。そのインスタレーションのひとつは、空間(床から2mくらいまでの高さをもつ音源)、床、天井にある音源から色んな音が発信され、音が身近に立体的に感じられる。これも初めての感覚でした。
ノア・エシュコルさんはイスラエルの振付家と紹介されていた(と思う)。そのタピストリーはよく見ると、丁寧に丹念に色遣いにも配慮したステッチによって布が重なり、交差し、ある躍動をもって訴えるものがあった。マティスの躍動感に通じるものがあると思った。マティスは晩年だったか、切り取った色紙をJazzyに表現した(という理解)。と感じていたら、11月16日まではマティスの《ダンス》も展示されていたらしい。パンフによるとマティスのそのcompositionがエシュコルさんのパッチワーク作品に影響を与えていたとのこと。(今発見。けっこう嬉しい。w)エシュコルさんは身体の動きを、音楽で言うと楽譜にして書き留めていて、もちろん、図。その図は立体的で広がりをもっていた。その記譜法から察する事は、彼女の身体表現は、身体を部位別にどのくらい回転できるか(角度)と、その組み合わせの種類で構成されたものだった。
シャロン・ロックハートさんは、私の記憶によると(w)、それらのエシュコルさんの確立した身体表現方法を体現していたアーティスト。そもそもエシュコルさんは、この身体表現法を個人的な、自分の内面を表す為のものとして捉えていたそうで、ロックハートさんのその映像作品もその意向を尊重したものでした。私は、最近レコメンドされているマインドフルネス瞑想と掛け合わせたりするとまた面白そうだと思った。だんだん新世代ヨーガ的なるものが確立されることも無いとは言えない。身体の各部位にパラレルで意識を向けるというのは興味深い。
エルネスト・ネト。こちらでは大蛇に飲み込まれるという疑似体験をした。実は予想よりも興味深く感じた。その個人的な理由にはハリポタを読んでいて、しかもヴォルデモート卿のルーツを、偶然にも向かう途中の電車の中で知ったばかりであった事に由来する。
さて、ここまでがざっくりと1Fでの展示でした。次はB1。
チョイ・カファイはシンガのアーティスト。筋肉に電気信号、パルスを送ることで、否が応でも信号通りに身体や筋肉が動いてしまうという実験的なもの。ある有名舞踏家の動きをコンピューターにスキャンして、それを電気信号に変換し、人体に配線して体現していた。
さて、次、有名現代「具体」作家たちの部屋は説明によると、この部屋で10億以上の価値があるとのこと。すごすぎる。
チェルフィッチュの日常から切り取った表現もなるほど、だった。
ここでは余談となりそうですが、長谷川さんの説明によると、最近のダンスや身体表現をする人は、古典も然ることながら日常から切り取ることができる風景をなんとダンスとして再発見しているらしい。
身近にあるのに通じ合えないもの、家電。その動きを作家のイメージを通して再現し、それらを理解しようとしたもの?があった。私は四角の箱で囲われた洗濯機がくねくね動くのが好きだった。
ダグラス・ゴートン&フィリップ・パレーノは元サッカー選手のジダンの動きを追った。だんだん話しの内容が本企画展の紹介から徐々に逸れているかもしれませんが、ジダン選手のサッカーを見たいと思った。
そのジダンといっしょにサッカーをした事があるという中田英寿が、ジダン選手のサッカーについて語る。中田英寿選手はジダンの試合を通して見た後、ともにプレーした時と客観的になった今、質問に応えるという形になっています。 その考察がとても素晴らしかった。
ジュリー・メーレトぅさんの展示は日本初とのことでした。こちらの作品は、描く内容別にレイヤーされいて、最後その画にメーレトゥさんの意志を書き加えてフィニ。モノクロームでその手法が際立っていました。
という感じで、個人的な解釈も多々加わっていると思われます。
みなさまはこれをあまりよく読まずに、本企画展をご観覧ください!!
以上、『新たな系譜学をもとめて』跳躍/痕跡/身体 の拝観記録とする。
※この記録では本企画展のパンフをおおいに参照しました。
私の記憶や解釈違いもあると思われます。拝読なさる際にはその点に十分ご注意お願い致します。
まず、なぜ、本企画展に興味を持ったのかです。これは率直即答で、長谷川祐子さんのロゴスにとてつもない興味を感じるからです。本企画展を知ったのはご本人のtweetに因ります。長谷川祐子さんのTwitterアカウントには本企画展の説明が並んでいます。Contemporary artはそのロゴスにいちばんの醍醐味があると思う。作品を通して何を考えてみたいと思っているのか、何が興味の中心なのか、またそれらはどういった手法で表現され、作品それ自体がどのような層(思考過程)を成しているのか、そしてその作品を通して制作者が伝えたい と思っている彼らの考えや意図、そしてその基礎や起源となった背景を知って初めて成立するものと感じます。つまり、それら抜きとなると種のない動植物、仕事のない毎日の様なものだろう。本来Artは言葉に表しにくい部分をその他の手段で表現するものと思いますが、そうは言ってもそれらをより深く理解する為に大切な部分がこれほど、ハッキリと明示してある事にまず感動したからです。本展示では各作家で個々の表現を試み、それらはグラデーションを持ちつつ、豊かなバリエーションとなってあるボリュームを作っていた。結果、十分な訴求力をもっていた!
野村萬斎さんは教育テレビのにほんごであそぼで知る程度でした。ですが萬斎さんの音声付きの舞台の映像を見て、狂言の芸術性の高さを知った気がします。説明によると、狂言の型は600年の時を脈々と経て来、その型を表現することで過去のいずれの当時へもトリップすることになる。それらはまぎれもなく萬斎さんの身体表現、感覚や記憶、知恵のルーツとなって現れていると考えられる。またその基礎があるからこそ、新しい試みへと跳躍できるのだ。2013年3月末グッゲンハイム美術館で行われた日本最古の舞では、杉本博司さんの(比較的最近であると思う)「Lightning Fields」が取り込まれていた。また、今日の長谷川さんの説明によると、萬斎さんの略年表はdigital signalと相交わり、最近よく見かけるスタイル、プロジェクターで映し出されていた。それらのアプローチミックスが私は素晴らしいと思う。
次はダムタイプ。そのインスタレーションのひとつは、空間(床から2mくらいまでの高さをもつ音源)、床、天井にある音源から色んな音が発信され、音が身近に立体的に感じられる。これも初めての感覚でした。
ノア・エシュコルさんはイスラエルの振付家と紹介されていた(と思う)。そのタピストリーはよく見ると、丁寧に丹念に色遣いにも配慮したステッチによって布が重なり、交差し、ある躍動をもって訴えるものがあった。マティスの躍動感に通じるものがあると思った。マティスは晩年だったか、切り取った色紙をJazzyに表現した(という理解)。と感じていたら、11月16日まではマティスの《ダンス》も展示されていたらしい。パンフによるとマティスのそのcompositionがエシュコルさんのパッチワーク作品に影響を与えていたとのこと。(今発見。けっこう嬉しい。w)エシュコルさんは身体の動きを、音楽で言うと楽譜にして書き留めていて、もちろん、図。その図は立体的で広がりをもっていた。その記譜法から察する事は、彼女の身体表現は、身体を部位別にどのくらい回転できるか(角度)と、その組み合わせの種類で構成されたものだった。
シャロン・ロックハートさんは、私の記憶によると(w)、それらのエシュコルさんの確立した身体表現方法を体現していたアーティスト。そもそもエシュコルさんは、この身体表現法を個人的な、自分の内面を表す為のものとして捉えていたそうで、ロックハートさんのその映像作品もその意向を尊重したものでした。私は、最近レコメンドされているマインドフルネス瞑想と掛け合わせたりするとまた面白そうだと思った。だんだん新世代ヨーガ的なるものが確立されることも無いとは言えない。身体の各部位にパラレルで意識を向けるというのは興味深い。
エルネスト・ネト。こちらでは大蛇に飲み込まれるという疑似体験をした。実は予想よりも興味深く感じた。その個人的な理由にはハリポタを読んでいて、しかもヴォルデモート卿のルーツを、偶然にも向かう途中の電車の中で知ったばかりであった事に由来する。
さて、ここまでがざっくりと1Fでの展示でした。次はB1。
チョイ・カファイはシンガのアーティスト。筋肉に電気信号、パルスを送ることで、否が応でも信号通りに身体や筋肉が動いてしまうという実験的なもの。ある有名舞踏家の動きをコンピューターにスキャンして、それを電気信号に変換し、人体に配線して体現していた。
さて、次、有名現代「具体」作家たちの部屋は説明によると、この部屋で10億以上の価値があるとのこと。すごすぎる。
チェルフィッチュの日常から切り取った表現もなるほど、だった。
ここでは余談となりそうですが、長谷川さんの説明によると、最近のダンスや身体表現をする人は、古典も然ることながら日常から切り取ることができる風景をなんとダンスとして再発見しているらしい。
身近にあるのに通じ合えないもの、家電。その動きを作家のイメージを通して再現し、それらを理解しようとしたもの?があった。私は四角の箱で囲われた洗濯機がくねくね動くのが好きだった。
ダグラス・ゴートン&フィリップ・パレーノは元サッカー選手のジダンの動きを追った。だんだん話しの内容が本企画展の紹介から徐々に逸れているかもしれませんが、ジダン選手のサッカーを見たいと思った。
そのジダンといっしょにサッカーをした事があるという中田英寿が、ジダン選手のサッカーについて語る。中田英寿選手はジダンの試合を通して見た後、ともにプレーした時と客観的になった今、質問に応えるという形になっています。 その考察がとても素晴らしかった。
ジュリー・メーレトぅさんの展示は日本初とのことでした。こちらの作品は、描く内容別にレイヤーされいて、最後その画にメーレトゥさんの意志を書き加えてフィニ。モノクロームでその手法が際立っていました。
という感じで、個人的な解釈も多々加わっていると思われます。
みなさまはこれをあまりよく読まずに、本企画展をご観覧ください!!
以上、『新たな系譜学をもとめて』跳躍/痕跡/身体 の拝観記録とする。